驟り雨
藤沢周平 (c)
盗っ人がひとり、八幡さまをまつる小さな神社の軒下にひそんでいた。嘉吉という男であ
嘉吉は、昼は研ぎ屋をしている。砥石、やすりなど商売道具を納めた箱を担って、江戸の
しかしそうだからといって、嘉吉は研ぎ屋仕事を、かならずしも世間をあざむくためとか、盗
だが時おり悪い血にそそのかされるようにして、人の家にしのびこむ。そのときは心の底
はげしい雨が降っている。地面にしぶきを上げる雨脚が、闇の中にぼんやりと光るのを眺
道をへだてた向う側に、黒い塀がたちはだかっている。そこが、これからしのびこもうと
呼び入れられて、嘉吉が仕事をする場所は、大てい裏口である。そこで小半日も腰を据え
見込みがありそうな家では、嘉吉は仕事をひきのばしたり、台所に入れてもらって弁当を
弁当を使いながら、女中と冗談口をききあうこともあった。嘉吉は三十二で、中肉中背。醜
奉公人のしつけひとつにも、しのびこめる家か、そうでない家かがあらわれている。盗っ
大津屋には、これまで二度呼びこまれた。そして三度目の今日、裏木戸から帰るときに嘉
--- だめだったら、塀を越えるだけさ。
嘉吉は眼を光らせてそう思った。あとは雨がやむのを待つだけだった。ここまで来たとき、突
神社の軒先にいる嘉吉を、あやしんで見る者もいなかった。嘉吉がそこにとびこんだころ、あ
不意に人声と足音がした。そしていきなり境内ともいえない狭い空地に、人が駆けこんで
「ああ、ああこんなに遅くなって、あたしどうしたらいいだろ」
そう言った声は、若い女だった。
「どうということはないよ。途中雨に遭って雨やどりして来ましたって言えば、おふくろ
若い男の声が、そう答えた。なよなよしたやさしい物言いは、女客を扱うことが多い小間
「若旦那が悪いんだから」
と女は極めつけるように言った。
「途中で落ち合うたって、今日はお茶でものんですぐ帰るだろうと思ったのに、やっぱり
「お前だって、黙ってついて来たじゃないか」
若旦那と呼ばれた男はやさしい声で言い、含み笑いをした。
「そりゃ誘われれば、女は弱いもの。あたしはもう若旦那から離れられない」
不意に沈黙が落ちて、あたりが雨の音に満ちたのは、男と女がそこで抱き合ってでもいる
--- ガキめら!早く失せやがれ。
腹の中で嘉吉が罵ったとき、女が夢からさめたような声を出した。
「でも、あたしたちこんなことをしていて、これから先、いったいどうなるのかしら」
「心配することはないよ。あたしにまかせろって言ってあるだろ」
「きっとおかみさんにしてくれる?」
「もちろんだとも」
「うれしい」
そこで二人とも黙ってしまったのは、また抱き合うか、顔をくっつけるかしているらしい。嘉
ねえ?と女が甘ったるい声を出した。
「もしもの話だけど。。。」
「何だい?」
「もしもよ、赤ん坊が出来たらどうするの?」
「赤んぼ?」男はぎょっとしたような声を出した。そして急に笑い出した。
「おどかすんじゃないよ、お前」
「あたし、おどかしてなんかいない」
女の声が、急にきっとなった。もともと気の強い女のようだった。
「ひょっとすると、そうかも知れないって言っているの」
「.....」
「だってもう二月も、アレがないもの」
「まさか」男はまた笑った。が、うつろな笑い声だった。
「お前、そうやってあたしの気持をためそうというんだね」
「そうじゃないってば」
女ははげしい口調で言った。
「ほんとうに身ごもったかも知れないの」
「.....」
「どうする?」
「どうするたって、お前」
男は困惑したように言った。声音からさっきまでのやさしさが消えている。
「もう少したってみなきゃわからないことじゃないか」
「もう少しして、もしほんとだったら、どうするの」
「.....」
「旦那さまやおかみさんに、ちゃんと話してくれる?」
「ああ」
男はおそろしく冷たい声で言った。
「そのときはそうするよりほか仕方ないでしょ」
「きっとね」
「.....」
「ちゃんと言ってくれなきゃ、あたしからおかみさんに言いますからね」
「わかった、わかった」
男はいそいで言っている。
「その話はまた後にしよう。こんなに濡れちまってんだから、先にお帰り。あたしはあと
「また会ってくれる?」
「ああ」
下駄の音が、石畳を踏んで、道に出て行った。しばらくして男がひとりごとを言った。
「冗談じゃありませんよ。そんなことが親父に知れたら、あたしゃ勘当ものだよ」
そして妙に気取った声で、伊勢屋徳三郎一生の不覚、こいつァちと、早まったかァ、と言
それっきり物音が絶えたので、嘉吉がのぞくと、男の姿も見えなくなっていた。女のあと
嘉吉はほっとして、雨の様子をうかがった。小降りになった雨は、予想にたがわずそのま
--- やんだら、入るぞ。
と嘉吉は思った。忍び口は決めてある。台所横の裏口だ。そこからずいと台所に上がって
嘉吉が独り者だと知ると、お茶をのめの、せんべいをつまめのと、いやになれなれしくす
女中部屋の前を通り抜けると、時期に茶の間に出る。主人夫婦の寝部屋はその隣だと、お
大津屋は、その晩のうちに売り上げを土蔵に運びこむことはしねえ店だ。一度外で包丁を
嘉吉のもの思いは、突然に中断された。小さな鳥居の前に、いつの間にか黒い影が二つ立
嘉吉はまた庇の下を伝わって、横手に回った。そこで耳を澄ませた。だが男二人の話し声
「ここじゃ濡れる。ちょっとそこの軒下に入ろうじゃねえか」
軒下というのは、八幡さまのことだ。嘉吉は、またかとうんざりした。だがそう言った声
声に聞きおぼえがあったわけではない。声音から、ぞっとするほど陰気なひびきを聞きつ
「おれは帰るよ」
と、もう一人が言った。その男も、とても堅気の腹の中から出たとは思えない、陰気に冷
「話は済んだぜ、巳之(みの)」
「いいや、済んじゃいねえさ」
はじめの男がそう言って、含み笑いをした。しかしべつにうれしくて笑ったわけではない
「もらうものはきっちりもらう。それがおれのやり方だ。いくら兄貴だって、おれの取り
「わからねえ男だねえ、おめえも。今度のいかさまでは儲かっちゃいねえ。分け前をもら
「竹はそうは言わなかったぜ」
「竹がどう言ったか、おれが知るもんか。だがおれはビタ一文懐にしちゃいねえし、おめ
「兄貴がそうやって白を切るなら、おれはこの話を親分の前に持ち出すぜ」
「親分だと?」
「そうさ。多賀屋はいかさまにひっかかりましたと、親分に泣きついたそうだ。親分はウ
「やめろ」
兄貴と呼ばれた男が鋭く言った。
「よくよくの馬鹿だ、おめえは。そんなことをして何になる」
「さあ、何になるかな」
巳之という男がうそぶいている。
「多賀屋があの晩いくら巻き上げられたかわかれば、おいらの取り分がどのぐらいになっ
「やめろよ、巳之」
兄貴の声が無気味に沈んだ。
「そんなことをしたら、おれたちはただじゃ済まねえことになるぜ。おれはいい。だが、助
「そうかい。それじゃ黙っててやるから、おいらの取り分をくれるんだな」
「おやめ、おれを脅すつもりか」
「さあ、どうかね」
巳之がせせら笑った。
「ネタは上がってんだぜ、兄貴。あんたはおいらの取り分を懐に入れてよ。櫓下(やぐら
「.....」
「おれはしつこいたちだからな。兄貴にかけ合うからには、それぐらいのことは探ってい
「ほう、えらいな」
と兄貴が言った。ふっとやさしい声に聞こえた。
「一人で調べたのかえ?」
「あたりめえだ。どうしても白を切って、金をくれねえというなら、女のことも親分にば
不意に黒い影が道の上に跳ねた。それを追って、もうひとつの影が、うしろから抱きつく
ひと声、絶叫が闇をきり裂いてひびき、二つの人影がひとつになって道の上に転んだ。す
その上に、まだ小降りの雨が降っている。おそらく男たちは泥まみれになっているはずだ
ついに一方が、一方の上に馬乗りになった。そして高くかざした匕首を、下になった男の
ようやく上になった男が立ち上がった。その男が吐く、荒あらしい息が嘉吉の耳にも聞こ
二匹の野獣の争いを、嘉吉はそれまでひややかな眼でのぞいていたが、勝った男が立ち去
--- くたばっちまったか。
うんざりしていた。やられた男に同情する気持はこれっぽっちもなかった。嘉吉の胸には
道の真中に死人を置いたまま、大津屋にしのびこむわけにはいかなかった。もう人通りは
--- 裏に隠すか。
八幡さまの裏に、ひと握りほどの雑木林がくっついている。厄介だが、ひとまず死骸をそ
--- 野郎、生きていやがった。
足をひいて、鳥居のうしろに身をひそめた嘉吉の眼の前で、倒れていた男がのろのろと身
--- その調子だ。しっかりしろい。
嘉吉はうしろから声援を送った。べつに男を気遣ったわけではない。くたばるなら少しで
男の姿は、よろめきながら闇のむこうに消えた。ともあれ、これでじゃま者はいなくなっ
雨はほとんどやんでいた。嘉吉は、もう一度用心深くあたりの気配を窺ったが、社前の杉
時は四ツ半(午後十一時)。善良な人びとはみな眠りにつき、いよいよ盗っ人の出番がや
ひと息入れて取りかかるぞ。そう思って嘉吉がぐと腹に力をこめたとき、道の左手にぽつ
--- 今ごろ、なんだ、なんだ。
嘉吉は、あわててまた社の横手に回った。灯影はじれったいほどゆっくり近づいて来る。実
「おちえ、ここで少し休んで行こうか」
ひどく弱よわし声だった。すると、芝居の子役のように澄んだ声が、おっかさん、まだ痛
嘉吉が首をつき出してみると、二十半ばといった見当の女と、六つか七つとみえる女の子
女は鼻筋の通った美人だったが、髪はみだれ、提灯の明りでもそれとわかるほど、血の気
--- なんだい、病人かね。
首をひっこめて、嘉吉はそう思った。母親の方のぐあいが悪いので、医者に薬をもらいに
病人じゃしょうがねえや。つごうがあるから行ってくれとも言えねえ、と嘉吉は思った。辛
「おっかさん、背中をさすってやろうか」
と女の子が言っている。どうやら二人は、扉の前の上がり口に腰をおろした様子だった。
「すまないねえ」
「おとっつぁんのところになど、行かなければよかったねえ」
と女の子がこましゃくれた口ぶりで言った。
「おとっつぁんは怒るし、あのおねえちゃんは、上にあがっちゃいけないっていうし、さ」
「おっかさんだって、行きたくはなかったよ」
と、母親が言った。何かべつのことを考えているように、うつろで沈んだ声だった。
「でも、店賃がとどこおってねえ。大家さんに出て行ってくれって言われたしね。身体が
「おとっつぁんは、どうして家に帰らないで、あの家にいるの?」
「さあ、どうしてだろうねえ」
母親の声には力がなかった。
「大方おっかさんより、あのおねえちゃんといる方がいいんだろ。お前という娘もいるの
「もう帰って来ないの?」
「もう帰って来やしないねえ」
どんな野郎だ、と嘉吉は思った。女の亭主のことである。むらむらと怒りがこみ上げて来
耳に入って来たことだけで、この親子がいま置かれている境遇というものは、およそのみ
それで女房は、思い切って亭主をたずねて行ったが、剣もほろろに扱われてもどるところ
--- もったいねえことしやがる。
嘉吉は怒りのために、思わずうなり声を立てそうになった。
おはるといった。それが嘉吉の女房の名前だった。そのころ嘉吉は鍛冶の職人で、ばりば
嘉吉は腕のいい職人だったので、いずれ親方からのれんをわけてもらい、ひとり立ちする
だが突風のような不幸が、嘉吉の家を襲った。死が腹の子もろとも、おはるを奪い去った
嘉吉は、それまであまり好きでもなかった酒をのむようになり、やがて深酒して仕事を休
そのころのある日、嘉吉は町の通りすがりに、店の前に紅白の幔幕を張りめぐらした家を
--- 何をうれしそうに笑ってやがる。
と思った。自分でも理不屈だと思いながら、嘉吉は、胸の奥から噴きあげて来る暗い怒り
嘉吉の胸には、ついこの間まで手の中に握っていたしあわせが、見果てぬ夢のように、か
だが聞こえて来るしあわせそうな笑い声は、嘉吉のまぼろしのような物思いを無残に砕き、し
世の中には、しあわせもあり、不しあわせもあるとは考えなかった。いましあわせな者も
その夜嘉吉は、人が寝静まった町を、夜行の獣のように走って、昼笑いさざめいていた家
「おちえ、腹すいただろ、ごめんよ」
「あたい、おなかすいてない」
「いいんだよ、すいたらすいたって言いな。おまえにあんまりいい子にされると、おっか
「そんなら、すいた」
「そうさ。もうこんな時刻だもの。家へ帰ったら、おすえさんにお米を借りて、おまんま
聞きながら、嘉吉は眼に涙をためた。二人の話し声が、ふっと死んだおはると子供が話し
--- なんてえもったいねえことをしやがる。
と、また思った。こんないい女房子供がありながら、それで足りずに家を捨てるなんて、ゆ
「そろそろ行こうか」
「だいじょうぶ?歩ける?」
「だいじょうぶさ。でも、遠いとこまで来ちゃったねえ、おちえ。おまえ、さっきのよう
二人が立ち上がった気配がした。嘉吉はそろそろと前に出て、社殿の角から二人をのぞい
--- ほんとにだいじょうぶかね。
嘉吉がそう思ったとき、はたして道に出たところで、母親が前にのめってがくっと地面に
「そうら、言わねえこっちゃねえ」
大声をあげて、嘉吉は軒下から道にとび出した。
突然とび出した嘉吉を、母親はぎょっとしたように子供を胸に抱きこみながら見上げた。恐
「怪しいもんじゃねえ」
嘉吉はいそいで言った。
「ちょいとそこで雨やどりしてたところに、おめさんたちが来たもんだから、つい出そび
嘉吉は、女を助け起こした。子供が眼をまるくしているのをみると、そちらの頭もなでで
「おいらは嘉吉といってよ。深川の元町で研ぎ屋をしてる者(もん)だ。まっとうに暮ら
「.....」
「お前さんたち、どこまで帰りなさる」
「深川の富川町ですけど」
「なんだ、なんだ、それじゃご近所じゃねえか」
嘉吉は陽気に言った。
「送って行こう。ここから子供連れで帰るんじゃ、夜が明けちまうぜ」
「かまわないでくださいな」
と女が言った。まだいくらか嘉吉を疑って(うたぐって)いるようだった。これか、と思
「遠慮することはねえぜ、おかみさん」
「遠慮はしていません。そろそろ行きますから、どうぞお先してくださいな」
「そうかえ」
と言ったが、嘉吉は二人が歩き出すのを立って見ていた。親子は嘉吉を置いて歩き出した
嘉吉は近づくと、膝をついたまま息をととのえている女の前にうずくまって、黙って背を
「悪いが話を聞きましたぜ」
三ツ目橋を渡りながら、嘉吉は言った。
「おいらはしがねえ研ぎ屋だが、よかったら、ちっとぐれえ力になりますぜ、おかみさん」
嘉吉がそう言うと、それまで背中の上でこわばっていた女の身体が、力を失ったように急
女を背負い、片手に子供の手を引いて、細ぼそとした提灯の明りをたよりに歩いていると、嘉
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