Черная Чернушка (mckuroske) wrote,
Черная Чернушка
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驟り雨

藤沢周平 (c)

盗っ人がひとり、八幡さまをまつる小さな神社の軒下にひそんでいた。嘉吉という男である。
嘉吉は、昼は研ぎ屋をしている。砥石、やすりなど商売道具を納めた箱を担って、江戸の町々を庖丁、鎌、鋏などを研いで回る。鋸の目立てを頼まれる事もあり、やすりはそのときの用意だった。そうして回っている間に、これぞと眼をつけた家に、夜もう一度入り直すわけである。
しかしそうだからといって、嘉吉は研ぎ屋仕事を、かならずしも世間をあざむくためとか、盗みに入る家を物色するためにやっているとか考えているわけではない。それはそれで身をいれ、そちらの方が本職だと思っていた。
だが時おり悪い血にそそのかされるようにして、人の家にしのびこむ。そのときは心の底まで盗っ人になり切っている。騒がれれば人を刺しかねない気持になって、盗みを働く。そういうふうになってから数年たつが、まだ誰にも気づかれたことはなかった。
はげしい雨が降っている。地面にしぶきを上げる雨脚が、闇の中にぼんやりと光るのを眺めながら嘉吉は雨がやむのを待っていた。
道をへだてた向う側に、黒い塀がたちはだかっている。そこが、これからしのびこもうとしている大津屋という古手問屋だった。上方からとりよせる品物をそろえて繁昌している店である。
呼び入れられて、嘉吉が仕事をする場所は、大てい裏口である。そこで小半日も腰を据えて仕事をし、水を飲ませてもらったり、はばかりを借りたりして家の中に入り込んでいる間に、しのびこめる家か、そうでない家かは大体見当がついて来る。
見込みがありそうな家では、嘉吉は仕事をひきのばしたり、台所に入れてもらって弁当を使ったりして、入念に家の内外に眼を働かせる。
弁当を使いながら、女中と冗談口をききあうこともあった。嘉吉は三十二で、中肉中背。醜男(ぶおとこ)でも美男でもなく、いっこうに目立たない顔をしているが、話の間に嘉吉がひとり者だと知れると、急に口数が多くなる女中もいる。
奉公人のしつけひとつにも、しのびこめる家か、そうでない家かがあらわれている。盗っ人稼業に年季が入ると、そいうことを見抜く眼も鋭くなった。
大津屋には、これまで二度呼びこまれた。そして三度目の今日、裏木戸から帰るときに嘉吉は、出口にある仕かけを残して来た。夕方裏木戸をしめるとき、かんぬきがうまくおりなかったはずである。きちんとした家なら、それから大工を呼んでも、そこを直すはずだが、大津屋はそうしないだろうと嘉吉はみていた。おそらくひと晩は間にあわせの直しですごすに違いない。
--- だめだったら、塀を越えるだけさ。
嘉吉は眼を光らせてそう思った。あとは雨がやむのを待つだけだった。ここまで来たとき、突然降り出した雨は、そう長くつづかないだろうと嘉吉は思っていた。夜空のどこかに薄い明るみがある。
神社の軒先にいる嘉吉を、あやしんで見る者もいなかった。嘉吉がそこにとびこんだころ、あわただしく道を走り抜けて行った者が四、五人いたが、そのあとは人通りもなく、道は雨に打たれたまま刻が経っている。
不意に人声と足音がした。そしていきなり境内ともいえない狭い空地に、人が駆けこんで来たので嘉吉はあわてて軒下を横に回りこんで、身をひそめた。
「ああ、ああこんなに遅くなって、あたしどうしたらいいだろ」
そう言った声は、若い女だった。
「どうということはないよ。途中雨に遭って雨やどりして来ましたって言えば、おふくろは何にも言いやしないよ」
若い男の声が、そう答えた。なよなよしたやさしい物言いは、女客を扱うことが多い小間物屋とか呉服屋とかにいる男を想像させた。
「若旦那が悪いんだから」
と女は極めつけるように言った。
「途中で落ち合うたって、今日はお茶でものんですぐ帰るだろうと思ったのに、やっぱりあっそこへ連れて行くんだから」
「お前だって、黙ってついて来たじゃないか」
若旦那と呼ばれた男はやさしい声で言い、含み笑いをした。
「そりゃ誘われれば、女は弱いもの。あたしはもう若旦那から離れられない」
不意に沈黙が落ちて、あたりが雨の音に満ちたのは、男と女がそこで抱き合ってでもいる気配だった。話の様子では、同じ店でいい仲になっている若旦那と奉公人が、それぞれ用で外に出たついでに、途中で落ち合ってよそしくやって来たということででもあるらしかった。嘉吉は胸の中で舌打ちした。
--- ガキめら!早く失せやがれ。
腹の中で嘉吉が罵ったとき、女が夢からさめたような声を出した。
「でも、あたしたちこんなことをしていて、これから先、いったいどうなるのかしら」
「心配することはないよ。あたしにまかせろって言ってあるだろ」
「きっとおかみさんにしてくれる?」
「もちろんだとも」
「うれしい」
そこで二人とも黙ってしまったのは、また抱き合うか、顔をくっつけるかしているらしい。嘉吉はいらいらした。雨はいくぶん小降りになったようだった。
ねえ?と女が甘ったるい声を出した。
「もしもの話だけど。。。」
「何だい?」
「もしもよ、赤ん坊が出来たらどうするの?」
「赤んぼ?」男はぎょっとしたような声を出した。そして急に笑い出した。
「おどかすんじゃないよ、お前」
「あたし、おどかしてなんかいない」
女の声が、急にきっとなった。もともと気の強い女のようだった。
「ひょっとすると、そうかも知れないって言っているの」
「.....」
「だってもう二月も、アレがないもの」
「まさか」男はまた笑った。が、うつろな笑い声だった。
「お前、そうやってあたしの気持をためそうというんだね」
「そうじゃないってば」
女ははげしい口調で言った。
「ほんとうに身ごもったかも知れないの」
「.....」
「どうする?」
「どうするたって、お前」
男は困惑したように言った。声音からさっきまでのやさしさが消えている。
「もう少したってみなきゃわからないことじゃないか」
「もう少しして、もしほんとだったら、どうするの」
「.....」
「旦那さまやおかみさんに、ちゃんと話してくれる?」
「ああ」
男はおそろしく冷たい声で言った。
「そのときはそうするよりほか仕方ないでしょ」
「きっとね」
「.....」
「ちゃんと言ってくれなきゃ、あたしからおかみさんに言いますからね」
「わかった、わかった」
男はいそいで言っている。
「その話はまた後にしよう。こんなに濡れちまってんだから、先にお帰り。あたしはあとから行く」
「また会ってくれる?」
「ああ」
下駄の音が、石畳を踏んで、道に出て行った。しばらくして男がひとりごとを言った。
「冗談じゃありませんよ。そんなことが親父に知れたら、あたしゃ勘当ものだよ」
そして妙に気取った声で、伊勢屋徳三郎一生の不覚、こいつァちと、早まったかァ、と言ったのは芝居に凝っている男なのかも知れなかった。
それっきり物音が絶えたので、嘉吉がのぞくと、男の姿も見えなくなっていた。女のあとを追ってまだ降っている雨の中に飛び出して行ったらしかった。
嘉吉はほっとして、雨の様子をうかがった。小降りになった雨は、予想にたがわずそのままやんで行く気配だった。地面にしぶきを立てた勢いはとっくに失われて、まだ雨音はしているが、それもだんだんに弱まって来ている。
--- やんだら、入るぞ。
と嘉吉は思った。忍び口は決めてある。台所横の裏口だ。そこからずいと台所に上がって廊下に出る。そこには女中部屋があるから、気をつけなきゃいけねえなと思った。女中は三人いて、一人は通いで夕刻には家に帰るが、あとの二人は住みこみだ。
嘉吉が独り者だと知ると、お茶をのめの、せんべいをつまめのと、いやになれなれしくすり寄って来るおきよという女中は、心配はない。めったなことでは目ざめそうもない図体のでかい女だ。だがもう一人の、後家さんだという五十過ぎの婆さん女中は痩せっぽちだ。目ざといかも知れない。めったな音をたてちゃならねえ。
女中部屋の前を通り抜けると、時期に茶の間に出る。主人夫婦の寝部屋はその隣だと、おきよに聞いたが、夜はがら空きの茶の間に、一日の売り上げを納める金箱があるはずだ。はばかりを拝借、てなことを言って上がりこんだついでに、茶の間の方まで行って、旦那と番頭が金箱の前で何か話しこんでいるのを見た。そのとき仏壇の下の押入れが開いていてがらんどうだったから、金箱はあの中に入れてあるに違えねえ。
大津屋は、その晩のうちに売り上げを土蔵に運びこむことはしねえ店だ。一度外で包丁を研ぎながら見たが...
嘉吉のもの思いは、突然に中断された。小さな鳥居の前に、いつの間にか黒い影が二つ立って、ひそひそ話している。今度は二人とも男だった。
嘉吉はまた庇の下を伝わって、横手に回った。そこで耳を澄ませた。だが男二人の話し声は低くて何も聞きとれず、しかも長い。嘉吉はいらいらした。野郎ども、なにをいつまでぐたぐた言ってやがる。腹の中で毒づいたとき、やっと一人が大きな声を出した。
「ここじゃ濡れる。ちょっとそこの軒下に入ろうじゃねえか」
軒下というのは、八幡さまのことだ。嘉吉は、またかとうんざりした。だがそう言った声音に、嘉吉の耳をそばだてさせるものがあった。
声に聞きおぼえがあったわけではない。声音から、ぞっとするほど陰気なひびきを聞きつけたのである。こいつは何者だ、と嘉吉は思った。
「おれは帰るよ」
と、もう一人が言った。その男も、とても堅気の腹の中から出たとは思えない、陰気に冷たい声を出した。
「話は済んだぜ、巳之(みの)」
「いいや、済んじゃいねえさ」
はじめの男がそう言って、含み笑いをした。しかしべつにうれしくて笑ったわけではないらしく、すぐに笑いにかぶせてつづけた。
「もらうものはきっちりもらう。それがおれのやり方だ。いくら兄貴だって、おれの取り分を猫ババしようてえのは黙っちゃいられねえ。話をつけてもらうぜ」
「わからねえ男だねえ、おめえも。今度のいかさまでは儲かっちゃいねえ。分け前をもらったやつは誰もいねえと言ってる」
「竹はそうは言わなかったぜ」
「竹がどう言ったか、おれが知るもんか。だがおれはビタ一文懐にしちゃいねえし、おめえの取り分もなかった。わかったか。話はこれで終わりだ」
「兄貴がそうやって白を切るなら、おれはこの話を親分の前に持ち出すぜ」
「親分だと?」
「そうさ。多賀屋はいかさまにひっかかりましたと、親分に泣きついたそうだ。親分はウチの賭場に限って、そういうことがあるはずはございませんとつっぱねたらしいから、おれがこういうことがありましたと白状したら...」
「やめろ」
兄貴と呼ばれた男が鋭く言った。
「よくよくの馬鹿だ、おめえは。そんなことをして何になる」
「さあ、何になるかな」
巳之という男がうそぶいている。
「多賀屋があの晩いくら巻き上げられたかわかれば、おいらの取り分がどのぐらいになったかぐれえわかるだろうさ」
「やめろよ、巳之」
兄貴の声が無気味に沈んだ。
「そんなことをしたら、おれたちはただじゃ済まねえことになるぜ。おれはいい。だが、助蔵兄いが迷惑なさる」
「そうかい。それじゃ黙っててやるから、おいらの取り分をくれるんだな」
「おやめ、おれを脅すつもりか」
「さあ、どうかね」
巳之がせせら笑った。
「ネタは上がってんだぜ、兄貴。あんたはおいらの取り分を懐に入れてよ。櫓下(やぐらした)のおきみという女に使ったんだ」
「.....」
「おれはしつこいたちだからな。兄貴にかけ合うからには、それぐらいのことは探っているさ」
「ほう、えらいな」
と兄貴が言った。ふっとやさしい声に聞こえた。
「一人で調べたのかえ?」
「あたりめえだ。どうしても白を切って、金をくれねえというなら、女のことも親分にばらしてやろうと思ってよ。おれア、あんたが考えるほど、馬鹿じゃ.....あっ、なにをしやがる」
不意に黒い影が道の上に跳ねた。それを追って、もうひとつの影が、うしろから抱きつくように、前の影にぶつかって行った。その男の手に匕首(あいくち)とみえるものが、鋭く光ったのを嘉吉は見た。
ひと声、絶叫が闇をきり裂いてひびき、二つの人影がひとつになって道の上に転んだ。すさまじい組み打ちになった。野獣が餌を争うときのように、二人の男は絶えず低い怒号の声を吐きちらしながら、組み合ったままごろごろと道の上を転げ回った。
その上に、まだ小降りの雨が降っている。おそらく男たちは泥まみれになっているはずだったが、争うのをやめなかった。とことんまでいくつもりらしかった。
ついに一方が、一方の上に馬乗りになった。そして高くかざした匕首を、下になった男の上にはっしと打ちおろした。そのまま動きが静止した。刺された男が声を立てなかったのは、上の男が口をふさいだのかも知れなかった。
ようやく上になった男が立ち上がった。その男が吐く、荒あらしい息が嘉吉の耳にも聞こえた。男は荒い息を吐きながら、しばらく倒れている男を見おろしていたが、不意に身をひるがえすと、足ばやに闇の中に消えて行った。黒く横たわるものが地面に残されただけである。
二匹の野獣の争いを、嘉吉はそれまでひややかな眼でのぞいていたが、勝った男が立ち去ると、鳥居の下まで出て道を窺った。
--- くたばっちまったか。
うんざりしていた。やられた男に同情する気持はこれっぽっちもなかった。嘉吉の胸には怒りが動いている。ひとの稼業をじゃましやがって、と思った。
道の真中に死人を置いたまま、大津屋にしのびこむわけにはいかなかった。もう人通りはなさそうだが、油断は出来ない。嘉吉が前の家にしのびこんだあとに、もし誰かがここを通りかかって死骸を見つけたりすれば、いくら夜でもあたり一帯は大さわぎになるだろう。そのうちには役人も来る。とても落ちついて泥棒仕事というわけにはいかない。
--- 裏に隠すか。
八幡さまの裏に、ひと握りほどの雑木林がくっついている。厄介だが、ひとまず死骸をそこまで引きずって隠すしかなさそうだった。とんだ骨折りだ。道に横たわっている死骸にむかって、呪いの言葉を吐きちらしながら、嘉吉が道に足を踏み出しかけたとき、死骸がひと言うめいた。
--- 野郎、生きていやがった。
足をひいて、鳥居のうしろに身をひそめた嘉吉の眼の前で、倒れていた男がのろのろと身体を起こした。男は、何度か立ち上がりかけては腰を落としたが、ついに立ち上がると、ふらふらと歩き出した。いまにもつんのめりそうな、あぶなっかしい歩き方だったが、男は少しずつ道を遠ざかって行く。
--- その調子だ。しっかりしろい。
嘉吉はうしろから声援を送った。べつに男を気遣ったわけではない。くたばるなら少しでも遠くへ行ってからにしろと思っただけである。盗みを働く晩の嘉吉は、冷酷非常、石のように情知らずの男になっている。
男の姿は、よろめきながら闇のむこうに消えた。ともあれ、これでじゃま者はいなくなったわけである。嘉吉はほっとして、また八幡さまの軒下にもどった。
雨はほとんどやんでいた。嘉吉は、もう一度用心深くあたりの気配を窺ったが、社前の杉が、身ぶるいして降り落とす雨滴の音のほかは、何の物音もしなかった。
時は四ツ半(午後十一時)。善良な人びとはみな眠りにつき、いよいよ盗っ人の出番がやって来たようだった。
ひと息入れて取りかかるぞ。そう思って嘉吉がぐと腹に力をこめたとき、道の左手にぽつりと灯影が見えた。
--- 今ごろ、なんだ、なんだ。
嘉吉は、あわててまた社の横手に回った。灯影はじれったいほどゆっくり近づいて来る。実際に、嘉吉がじれて地だんだを踏みそうになったぐらい、灯の歩みは遅かった。重ねがさねのじゃま者の登場に、嘉吉はおそろしい形相になっている。ようやく近づいて来た提灯の灯りをにらみつけながら、嘉吉がとっとと失せやがれと腹の中でどなったとき、その声が聞こえたかのように、提灯はぴたりと鳥居の前でとまった。のみならず、女の声が、こう言っている。
「おちえ、ここで少し休んで行こうか」
ひどく弱よわし声だった。すると、芝居の子役のように澄んだ声が、おっかさん、まだ痛むかえ、と言った。
嘉吉が首をつき出してみると、二十半ばといった見当の女と、六つか七つとみえる女の子が、ひと休みすると決めたらしく、手をつないで境内に入ってくるところだった。嘉吉はじれて、泣きたくなった。
女は鼻筋の通った美人だったが、髪はみだれ、提灯の明りでもそれとわかるほど、血の気の失せた顔をしている。二人とも着ている物は粗末だった。
--- なんだい、病人かね。
首をひっこめて、嘉吉はそう思った。母親の方のぐあいが悪いので、医者に薬をもらいに行くところでもあるらしい。子供が介添えについて来たのだ。
病人じゃしょうがねえや。つごうがあるから行ってくれとも言えねえ、と嘉吉は思った。辛抱して二人が立ち去るのを待つ気になった。
「おっかさん、背中をさすってやろうか」
と女の子が言っている。どうやら二人は、扉の前の上がり口に腰をおろした様子だった。
「すまないねえ」
「おとっつぁんのところになど、行かなければよかったねえ」
と女の子がこましゃくれた口ぶりで言った。
「おとっつぁんは怒るし、あのおねえちゃんは、上にあがっちゃいけないっていうし、さ」
「おっかさんだって、行きたくはなかったよ」
と、母親が言った。何かべつのことを考えているように、うつろで沈んだ声だった。
「でも、店賃がとどこおってねえ。大家さんに出て行ってくれって言われたしね。身体が元気なら、おっかさん何とでもするけど、ずうっと病気だからねえ。仕方なしにお金をもらいに行ったんだ」
「おとっつぁんは、どうして家に帰らないで、あの家にいるの?」
「さあ、どうしてだろうねえ」
母親の声には力がなかった。
「大方おっかさんより、あのおねえちゃんといる方がいいんだろ。お前という娘もいるのに、若い女にとち狂っちゃってまあ」
「もう帰って来ないの?」
「もう帰って来やしないねえ」
どんな野郎だ、と嘉吉は思った。女の亭主のことである。むらむらと怒りがこみ上げて来ていた。
耳に入って来たことだけで、この親子がいま置かれている境遇というものは、およそのみこめたようだった。病弱な女房と子供を捨てて、その男はどこかで、若い女といい気になって暮らしているのだ。残された親子は店賃の払いにも困って、大家に出て行けがしに言われている。そういう事情らしかった。
それで女房は、思い切って亭主をたずねて行ったが、剣もほろろに扱われてもどるところらしい。
--- もったいねえことしやがる。
嘉吉は怒りのために、思わずうなり声を立てそうになった。
おはるといった。それが嘉吉の女房の名前だった。そのころ嘉吉は鍛冶の職人で、ばりばり働いていた。おはるは身ごもっていて、子供が生まれるのを待つばかりだった。ぜいたくは出来ないものの、親方には信用され、手当はきちんきちんと懐に入って来て、何の不足もない暮らしだった。
嘉吉は腕のいい職人だったので、いずれ親方からのれんをわけてもらい、ひとり立ちする約束も出来ていた。その場所はどのあたり、小僧を二人ほど雇って、と腹のふくれたおはるとその時の話をしている時はしあわせだった。
だが突風のような不幸が、嘉吉の家を襲った。死が腹の子もろとも、おはるを奪い去ったのである。はじめは軽い風邪だと思った病気が、身ごもって身体が弱っていたおはるを、みるみる衰弱させ高い熱が出て、あっという間の病死だった。
嘉吉は、それまであまり好きでもなかった酒をのむようになり、やがて深酒して仕事を休むようになった。親方の意見にも耳を傾けず、そのうちに気まずさがつのって鍛冶屋勤めをやめた。そのあとは日雇いをしたり、仕事がなければ家にごろごろしているような暮らしがつづいた。何をやっても張りあいがなかった。食うだけのものを稼ぐ気持はあったが、それさえ面倒だと思うこともあった。
そのころのある日、嘉吉は町の通りすがりに、店の前に紅白の幔幕を張りめぐらした家を見た。何か大げさな祝い事があるらしく、いそがしく人が出入りし、家の中からはごった返す人の気配と、笑い声が通りまで聞こえて来た。嘉吉を、不意の怒りに駆りたてたのは、その家の中から聞こえて来る笑い声だったのだ。どっと大勢の人が笑い、またどっと笑い声が起こった。
--- 何をうれしそうに笑ってやがる。
と思った。自分でも理不屈だと思いながら、嘉吉は、胸の奥から噴きあげて来る暗い怒りを、押さえることが出来なかった。それは強いて理屈づければ、世のしあわせなものに対する怒りといったものだったのである。
嘉吉の胸には、ついこの間まで手の中に握っていたしあわせが、見果てぬ夢のように、かすかに光って残っている。その思い出だけで、嘉吉は生きていた。
だが聞こえて来るしあわせそうな笑い声は、嘉吉のまぼろしのような物思いを無残に砕き、しあわせはとうの昔に失われて、いまは何も残っていないことを、あらためて思い出させるようだった。しあわせとはこういうものだ、と大勢の笑い声が告げていた。しあわせなやつらが、ふしあわせな人間を嘲笑っている、と嘉吉はその家から聞こえて来るどよめきを聞いた。
世の中には、しあわせもあり、不しあわせもあるとは考えなかった。いましあわせな者もいつまでもしあわせではなく、不しあわせな者にもいつかしあわせがめぐって来るかも知れないという考えは思いうかばなかった。しあわせな者に対する一途な怨みが、笑い声にひき出されてどっと胸に溢れた。
その夜嘉吉は、人が寝静まった町を、夜行の獣のように走って、昼笑いさざめいていた家にたどりつき、中にしのびこんで金を盗んだ。
「おちえ、腹すいただろ、ごめんよ」
「あたい、おなかすいてない」
「いいんだよ、すいたらすいたって言いな。おまえにあんまりいい子にされると、おっかさん悲しくなっちまうよ」
「そんなら、すいた」
「そうさ。もうこんな時刻だもの。家へ帰ったら、おすえさんにお米を借りて、おまんま炊いたげるから、安心おし」
聞きながら、嘉吉は眼に涙をためた。二人の話し声が、ふっと死んだおはると子供が話しているように聞こえたのである。
--- なんてえもったいねえことをしやがる。
と、また思った。こんないい女房子供がありながら、それで足りずに家を捨てるなんて、ゆるせねえぜいたくな野郎だ。
「そろそろ行こうか」
「だいじょうぶ?歩ける?」
「だいじょうぶさ。でも、遠いとこまで来ちゃったねえ、おちえ。おまえ、さっきのようにおっかさんの手を握っておくれ」
二人が立ち上がった気配がした。嘉吉はそろそろと前に出て、社殿の角から二人をのぞいた。二人は、まるで虫が這うように、のろのろと歩いている。母親の方が、かなり弱っている様子に見えた。
--- ほんとにだいじょうぶかね。
嘉吉がそう思ったとき、はたして道に出たところで、母親が前にのめってがくっと地面に膝をついた。子供が泣き出した。
「そうら、言わねえこっちゃねえ」
大声をあげて、嘉吉は軒下から道にとび出した。
突然とび出した嘉吉を、母親はぎょっとしたように子供を胸に抱きこみながら見上げた。恐怖に眼をいっぱいに見はらいているが、やはりちょいとしたいい女だった。
「怪しいもんじゃねえ」
嘉吉はいそいで言った。
「ちょいとそこで雨やどりしてたところに、おめさんたちが来たもんだから、つい出そびれちゃってよ。おどろかして済まなかった」
嘉吉は、女を助け起こした。子供が眼をまるくしているのをみると、そちらの頭もなででやった。
「おいらは嘉吉といってよ。深川の元町で研ぎ屋をしてる者(もん)だ。まっとうに暮らしてる者だから、安心しな」
「.....」
「お前さんたち、どこまで帰りなさる」
「深川の富川町ですけど」
「なんだ、なんだ、それじゃご近所じゃねえか」
嘉吉は陽気に言った。
「送って行こう。ここから子供連れで帰るんじゃ、夜が明けちまうぜ」
「かまわないでくださいな」
と女が言った。まだいくらか嘉吉を疑って(うたぐって)いるようだった。これか、と思って嘉吉はあわてて黒い布の頬かむりを取った。
「遠慮することはねえぜ、おかみさん」
「遠慮はしていません。そろそろ行きますから、どうぞお先してくださいな」
「そうかえ」
と言ったが、嘉吉は二人が歩き出すのを立って見ていた。親子は嘉吉を置いて歩き出したが、母親がまたよろめいて膝をついた。母親の手をひぱりながら、子供が嘉吉を振り返った。
嘉吉は近づくと、膝をついたまま息をととのえている女の前にうずくまって、黙って背をむけた。わずかの間ためらう気配だったが、ついに女は精根つき果てたように、嘉吉の背に倒れこんで来た。
「悪いが話を聞きましたぜ」
三ツ目橋を渡りながら、嘉吉は言った。
「おいらはしがねえ研ぎ屋だが、よかったら、ちっとぐれえ力になりますぜ、おかみさん」
嘉吉がそう言うと、それまで背中の上でこわばっていた女の身体が、力を失ったように急にぐったり重くなった。女は何も言わなかったが、その重みに、嘉吉は満足して、軽く女の身体をゆすり上げた。
女を背負い、片手に子供の手を引いて、細ぼそとした提灯の明りをたよりに歩いていると、嘉吉は前にもそんなふうに、三人で夜道を歩いたことがあったような気がして来た。ついさっきまで、息を殺して大津屋にしのびこむつもりでいたなどとは、とても信じられなかった。雨はすっかりやんで、夜空に星が光りはじめていた。

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Tags: переводческое, переводы
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